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菅間圭子における「放置 欲望 フェティシズム」
水野英彦(美術評論家)
菅間圭子が、「放置 欲望 フェティシズム」と題し、写真・絵画・インスタレーション・映像を展開する。もともと医療の現場という環境で育ってきた菅間が実家の病院の倉庫にあった医療器具を使用してインスタレーションを構築するという。
菅間は1995年初めて絵画を全面的に捨て本格的なインスタレーション(《Click/Crack ‘95》 銀座小野画廊)を行った。その時はいわゆる「散らかし系」のインスタレーションで、互いに脈絡のないものや廃棄物などを、《’Ready-Made’ Phenomena》シリーズの写真映像とともにランダムに並べた。並べたというよりも“投げ出した”― つまり展示プロセスにおいても、ある種の「放置」概念を介在させていたわけだ。
今でこそこの手の“散らかし系”のインスタレーションは珍しくないが、当時は(少なくとも、日本では)まだあまり目にすることがないものだった。
今回の展示はこうしたインスタレーション手法を再採用し、いわば作家の原点を再検証してみようといった自己言及的な側面を帯びたものになる。
こうしたことを含んだうえで、今回菅間が設定した命題「放置 欲望 フェティシズム」に言及しつつ個展の内容を解説したいと思う。この場合、「放置」と「フェティシズム」は前出の菅間写真作品《’Ready-Made’ Phenomena》シリーズ、もしくは菅間のインスタレーションを説明することである程度理解できよう。
「主に街角に放置されている(モノの)状況にしばしば完全なる構図とか色の美しさとかを感じてしまい、それらは人為的に意図され制作された「美術」ではないにも関わらず非常に魅力的なものに思えてシャッターを切り始めたところからスタートしています。私の中では人為的に制作された絵画・彫刻などよりはるかにダイナミズムを持った美しい光景としてそこに展開しているわけです。」(菅間圭子)
《’Ready-Made’ Phenomena》シリーズは、あらかじめ街角などに存在するものの景色に無垢なアートを発見する試みであり、作家は放置された実在のイメージをカメラ機能によって採取していたわけだ。そして初の本格的インスタレーションである1995年の《Click/Crack ‘95》では、実際のゴミ(のようなもの)を無造作に展示空間に投げ入れた。
「おそらく私は、それぞれのゴミ(のようなもの)を「美しい」と感じており、モノによるある種の生け花のような作業であったと分析しています。そういった思いを、物神性―フェティシズムと私は呼んでいるわけです。」(菅間圭子)
そこにモノによる《詩の発生》を見出だしたともいう。そこにはまた、「放置」と物神性 ― つまりフェティシズムが色濃くあった。
菅間は後に、この自らの“散らかし系”インスタレーションの一部を、ダダの「音響詩―sound poetry」になぞらえて、「物品詩―material poetry」と命名してもいる。
今回は、その原点に立ち返り、“生け花”的作業としてインスタレーションを展開しようとしている。その際の素材の多くが、菅間の家庭環境の中に、時に彼女の制作とともにあった、「我が家の医療器具」となるわけである。
用いられる材料は物神性を帯びた医療器具、“視る変態性”に裏打ちされた写真シリーズ、絵画、映像などで構成されることになる。
ところで、菅間圭子はこの“放置”と“物神性=フェティシズム”を接着するものとして“欲望”をとらえているのだが、ここでいう欲望とはフロイト流のそれではなく、意味生成の底まで降下していった初源的、自律神経的(ホメオスタシス的)欲望であって、この場合、悟性の対極にある感性によって動かされているものと考えたい。その感性の中には記憶や感情が微妙に絡んでいるだろう。菅間圭子はこの点に関してメモ書きを準備していたのでそれを記す。
「その① まず幼少期より医療の現場、患者さんの生き死に、人の死にざま、生命の不思議などを垣間見る機会が多かったことが、私の人生観に大きな影響を与えたこと。」
「その② 父が救急外科医であったことから、これらの医療器具は私にとって見慣れたものであり、父が入院をとらなくなってから元病室をアトリエに使わせてもらうようになったことで、私の実際の制作現場にはこういった医療器具が普通に転がっており、たとえば点滴スタンドにクリップライトをかけるなど、一部は実際に私自身使っていたりして、こういうものの中で制作するということが、自然だったこと。」
「その③ さらに、このアトリエを使い始めた90年代初頭は、ちょうど「絵画」を捨て、現代美術の方向に私自身が舵を切り始めた頃で、その頃のワークや試行錯誤のノートなどと20数年を経てあらためて対面したこと。当時の思考のいくつかが今後の制作において今なお有効であるということを再発見したこと。つまり10年以上「放置」していた思考に向き合ってみたということもできます。」
そしてこの放置と物神性に根差したフェティシズムは“現場”と“複写”と“アート”という場において何重もの入れ子を成しながら、記憶と経験則あるいは感性によって作家自身が「放置 欲望 フェティシズム」と呼ぶインスタレーションという“純粋な場”に帰結することになるのである。
【菅間圭子 Keiko KAMMA profile】 English follows
成蹊大学文学部文化学科卒業。比較文化を学ぶ。1980年代終わりに画家としてスタートし、1989年日仏現代美術展で、安田火災美術財団賞やフランスの美術雑誌「ロイユ」のロイユ賞などを受賞するが、1990年代初めにコンセプチュアルな写真による ‘Ready-Made’ Phenomenaシリーズによって現代美術の方向へ転換。このシリーズは、欧米やアジア・アフリカなどの街頭で抽象表現主義的な、あるいは現代美術的な画像をクローズアップにより切り取り、「あらかじめ脳内に存在するアート」を見出すもので、「アートは制作しなくてもそこに現象としてすでにある」といったテーマは菅間作品の根幹をなす問題となった。以後インスタレーションやパフォーマンスを主軸にした作業を展開。作品の中でしばしばある種の「放置」状況を提示。互いに関連性の見出せない物品や言葉・音・映像等による展示物は、観客の内なる観念を映し出す一種の鏡のように機能し、観客の意識を通してそれぞれの断片の連なりが新たな詩的連関を生み出すことをもくろんでいる。菅間はこの作業を“material poetry”と自ら造語し命名している。